原作は、2人の記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが著したルポルタージュで、興味を示したロバート・レッドフォードが映画化権を取得。地味な題材だけに、スターである自らがウッドワードを演じることで興行収入を担保した。
また、おなじく映画化権を欲しがっていたダスティン・ホフマンがバーンスタインに扮し、2大スターの共演となった。
いったいこれまで何度『大統領の陰謀』を観たことだろう? 2本立ての名画座のスクリーンで観、レンタルビデオで観、いまはWOWOWで録画したDVDでときどき眺めている。
テレビの洋画劇場の吹き替え版でも幾度か観た。
はるか昔のこと、さいしょにTBSの月曜ロードショーという枠で放送されたとき、同番組で開演まえに作品解説する映画評論家の荻昌弘氏がつぎのようなことを述べていたと記憶している。「大半の舞台となるワシントン・ポスト紙の編集部の壁が白いため、字幕が見にくかったので、吹き替えで放送できるのはよろこびである」と。
これを聞いて、当時の僕は、なるほど吹き替え版ならストーリーが理解できるかもしれないと思ったものだが、やはりわからないものはわからなかった。
ちなみに吹き替えは、レッドフォードを広川太一郎が、ホフマンを野沢那智がそれぞれつとめてたのしめた。しかし、放送時間の都合上、カットされる場面も多かった。
では、カット部分が多かったので、相変わらずストーリーがわかりにくかったかというと、そうではないだろう。
さて、ストーリーもわからない、映画的カタルシスもない『大統領の陰謀』の魅力とはなにか?
それは、ストーリーとはべつのところにあるし、そこにこそ映画的カタルシスも存在するわけだ。
